2020年代を生きる私たちは如何にして社会にコミットするか。 -SSSS.DYNAZENON 感想/考察/論考-

以下、『SSSS.DYNAZENON 』のネタバレを含みますので未視聴の方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロボットアニメは、少年がロボット(=拡張された身体)を手に入れることで大人と対等に社会にコミットし、社会的自己実現を果たす物語として描かれてきた。

 しかし、バブル崩壊と同時に社会的自己実現への信頼が大きく崩れ去った90年代、時代を象徴する作品である『新世紀エヴァンゲリオン』が誕生し、ロボットアニメという物語の不可能性が問われることになる。この作品の主人公である碇シンジは、社会(=父親)が信じられないのであれば、ロボットに乗らない(=社会にコミットしない)で引きこもるしかない、という道を選択する。この作品によって、90年代以降の(社会的自己実現への信頼が低下した)社会においては、「少年たちがその身体を拡張することで社会的自己実現を果たす」という欺瞞を描くことは不可能であると示されたのである。

 その後、同作品の劇場版にて、「社会を信頼できないとしても、他者に(「気持ち悪い」と)拒絶されるとしても、それでも他者とコミュニケーションを取るしかない」という自己批評的な回答によって、上記の引きこもり主義は否定されるが、残念ながらこの回答は当時のオタクたちには受け入れられなかった。

 以降、ポストエヴァ的な作品や、あるいはそれ以前の思想を反映した物語回帰的な作品を産みながらも、ロボットアニメという文化は少しずつ衰退の一途を辿ってきた。

 そして2021年、長い月日の果てに新作ロボットアニメ『SSSS.DYNAZENON』が誕生した。このアニメは、これまでのロボットアニメとは異なるアプローチにより、2020年代という時代への適応力を持った存在としての少年少女の有り様を描いたロボットアニメである。

 

 上で述べた通り、従来のロボットアニメでは、ロボットというものは少年(あるいは少女)が社会にコミットするための拡張された身体として描かれた。では、2020年代の少年少女はどのような手段で社会にコミットするのか。その答えは簡単である。現代の少年少女は、その手に持ったスマートフォンを通して、SNSソーシャルゲームで容易に社会と繋がり、自己同一性を獲得することができる。YouTube・Mirrativ等の配信ツールを使えば、コンテンツの発信者として自己実現を果たすことができる。つまり、2020年代の少年少女は、社会にコミットするための「拡張された身体」を最早必要としない。彼らはコミュニケーションツールを用いることで、容易に社会にコミットすることが可能なのである。そう、本作では、ロボットはコミュニケーションツールの一つとして描かれる。

 本作は、高校生である麻中蓬と南夢芽、無職の青年である山中暦、そして怪獣使いを名乗る謎の男ガウマの4人(作中では、暦の従姉妹で不登校の中学生の飛鳥川ちせを加えて「ガウマ隊」と称される)をメインの主人公とし、それぞれが乗るマシンが一つに合体したロボット「ダイナゼノン」で、怪獣優生思想を名乗る4人組が操る怪獣と戦う物語として描かれる。

 先ずは、2020年代の少年少女である蓬と夢芽に焦点を当てて語ろう。彼らは、学校の友人とは緩やかな雑談で、合唱部OBとはSNSを用いて、ガウマ隊の仲間達とはダイナソルジャー・ダイナウイングを通して「合体」することで、そして怪獣に対してはダイナゼノンに乗ることでコミュニケーションを果たす。彼らにとっては日常を構成する様々なものがコミュニケーションツールであり、ダイナゼノンはあくまでその一つでしかない。

 そして彼らは、己の意思に関わらず、多様な価値観の衝突する場であるSNSグローバル資本主義に参画せざるを得ない時代を生きている。つまり彼らは、ロボットに乗って戦う(=社会にコミットする)動機を各個人が持っていなかったとしても、必然的に戦わなくてはならない時代を生きているのである。だから彼らは、ダイナゼノンに乗って戦うことをあっさりと受け入れる。第2話『戦う理由って、なに?』において、始めは戦う動機を見出せずにアルバイトを優先していた蓬でさえも、街の人々を守る力を持っていることを自覚した途端に、積極的に戦いに参画するようになる。2020年代の少年少女は、戦う動機の有無に関わらず、既に戦いに参画することを要求されており、そしてそういった状況に余りにも慣れてしまっているために、新しい戦いにも容易に身を投じることができるのである。

 そして、2020年代の少年少女の描写の中でも特筆すべきなのは、第9話『重なる気持ちって、なに?』における飛鳥川ちせの活躍である。彼女はガウマ隊の一員という立ち位置でありながら、ダイナゼノンに乗るという役割(=社会にコミットするためのコミュニケーションツール)を持たない孤独なキャラクターとして描かれる。

 本作では、街にばら撒かれた「怪獣の種」が人間の感情を糧とすることで怪獣が生まれる。そして、ちせもまた、気付かぬ内にこの怪獣の種の持ち主となる。当事者でありながら、自分だけがダイナゼノンに乗って戦うことができない。そんな彼女の疎外感を糧に、種が徐々に成長していく様子が作中を通して描かれる。そして第9話にて、遂に彼女の疎外感から黄金の竜の姿をした怪獣が誕生するのである。彼女はそれにゴルドバーンと名付け、怪獣として退治されることを恐れて当初はその存在を隠蔽する。しかし、ゴルドバーンは人間と意思疎通が可能であることが証明されたことで、怪獣でありながらガウマ隊の仲間入りを果たすことになる。

 そう、ちせはその疎外感そのものをコミュニケーションツール(=ゴルドバーン)に変換することで、怪獣との戦いにコミットする権利を獲得したのである。これは2020年代の少年少女が多くのものをコミュニケーションツールへと変換してしまえる柔軟さを象徴するエピソードであると言える。

 しかし、一度集団に属してしまった以上は、疎外感を自己同一性と看做す行為にはパラドクスが生じてしまう。彼女がガウマ隊の一員としての役割を持った以上、最早その疎外感は解消され、コミュニケーションツールにはなり得ないのだ。だから、彼女とゴルドバーンとは離別する運命にあるのである。彼女はこれから、「孤独である」という自らの設定を自己同一性と看做すことから脱却できるだろうか。

 

 上述の通り容易に社会にコミットできる彼らも、少年少女である以上は精神的に未成熟である。だから彼らは、その未成熟さ故に過ちを犯す。そして本作では、その過ちの記憶に囚われてしまった少年少女の日常が緩やかに描かれる。しかし、そこには精神的外傷を自己同一性と看做すような90年代的な引きこもり主義は存在しない。蓬と夢芽は、夢芽の姉である香乃の死の真相に向き合うため、互いにコミュニケーションをとりながら、当時の香乃の様子を知る合唱部OBの人々と接触して情報を収集していく。そしていつしか、囚われていた過去から解放されるのである。

 この臨界点として描かれるのが、第10話の『思い出した記憶って、なに?』である。この第10話では、人々を過去に犯した過ちの記憶に閉じ込める能力を持った怪獣が登場する。そして、ダイナゼノンの操縦者の4人もまた、「やり直したい過去」という精神的外傷に閉じ込められる。夢芽が閉じ込められる過去とは、もちろん姉である香乃の命日である。夢芽は過去の自分と同一化し、蓬の力を借りながらも、当時は素直に向き合えなかった香乃と正面から向き合うことでその死の真実を知り、過去から解放されて、今、自分が生きている現実へと帰還を果たす。

 2020年代の未成熟な少年少女は、未成熟なまま社会へコミットすることで過ちを犯すが、コミュニケーションによってその過ちすらも克服してしまえるのである。

 

 一方で、蓬と夢芽と共に怪獣との戦いに巻き込まれた青年、山中暦は、学生時代の精神的外傷を抱え、社会に参画できずに引きこもる無職として描かれる。そう、彼は社会にコミットすることを辞めて精神的外傷に自己同一性を求めた「碇シンジ」の成れの果てであり、本作はそんな彼の成長物語でもあるのだ。

 碇シンジ的な「引きこもり」は、90年代には単純に「社会にコミットしないこと」を意味していた。しかし、アメリ同時多発テロの発生、グローバル資本主義の拡大、格差社会意識の浸透、SNSの普及による価値観の衝突の可視化を経た現在においては、もはや人々は「社会にコミットしない」ことは不可能である。2020年代においては、人々は敢えて何らかの主義や価値観を決断主義的に選択して生きるしかない、たとえそれが不可能性を孕んでいたとしても。本作の暦もまた、無職という(いずれ破綻を迎える)戦いの中を生きている。だから、そんな彼もまた蓬や夢芽と同様に、怪獣との戦いにも容易に身を投じることが出来るのである。

 そして暦は、怪獣との戦いとは別の、もう一つの戦いに身を投じることになる。彼はダイナゼノン(=コミュニケーションツール)を獲得すると同時に、中学校の同級生だった女性、稲本(=過去の精神的外傷)と再会するのである。

 物語が進むに連れて、暦の過去が徐々に明かされる。彼は中学時代に、校舎の窓ガラスを割った稲本を目撃し、その秘密を口外しない対価として「あるもの」を得ることになるが、結局自ら逃げ出してそれを喪ってしまう。その喪失感こそが、彼の精神的外傷なのである。そんな彼は、現在の稲本とコミュニケーションを取る中で、彼女は配偶者である橘との関係性の中に生きていて、稲本(=精神的外傷)は暦の自己同一性たり得ないことを否応なく受け入れざるを得ない状況に直面する。その事実を受け入れられずに酩酊した挙句、怪獣優生思想の一員であるムジナにダイナストライカーを盗まれるという散々な有様を晒す暦だったが、第7話『集まった意味って、なに?』にて、稲本の配偶者である橘が怪獣との戦いに巻き込まれて負傷しているのを発見した際には、逡巡しながらもその命を救うことを選択する。遂に彼は、精神的外傷に自己同一性を求める「碇シンジ」であることから脱却し、人を救うこと(=主体的に社会にコミットすること)に自己同一性を見出し始めたのである。

 その後も、自己同一性のゆらぎへの戸惑いからか、中学時代の稲本を再現するかのように校舎の窓ガラスに石を投げようとするが、ちせからの着信によってガウマ隊の緊急招集を優先することとなる。

 また、上述の第10話にて「やり直したい過去」に囚われた際には、暦が過去に喪った「あるもの」の正体が明かされる。それは、黒いバッグに詰め込まれた出所不明の大量の札束だった。当時はその金額に危険を感じて稲本から逃げ出す暦だったが、今度は稲本と共にその札束を奪い去るという「やり直し」を選択することになる。暦と稲本は、逃避行の果てに砂浜に辿り着く。その刹那、ダイナソルジャーの力を借りて暦の過去へ干渉した蓬が現れると同時に突風が巻き起こり、札束はバラバラに舞い上がる。慌てふためきながら空中へ手を伸ばす暦を、「どうせ本物じゃないよ」と笑う稲本。その笑みを目にした暦は冷静さを取り戻し、過去をやり直すことは不可能であるという事実を受け入れる。そんな暦に対して蓬が現実世界への帰還を促すと、「俺は…」と語る暇も与えられず、あっさりと帰還を果たす。彼はもう、精神的外傷に自己同一性を求めた「碇シンジ」ではないのである。無職だった彼のその後の選択について語るのは、野暮というものであろう。

 

 さて、ここからは、怪獣の話をしよう。

 「人間は自身が作った関係性という理で自分を縛っておきながら、自由を求める。煩わしくないのかな。」そう語るのは怪獣優生思想のひとり、シズムである。怪獣優生思想である彼は、人間同士の関係性を否定する。これが象徴するように、本作の怪獣は、従来の特撮作品と同様に暴力や災害としての意味を持つのと同時に、ダイナゼノン(=コミュニケーション)を否定する者、つまり断絶の象徴として描かれる。そしてシズムはこうも語る。「人間の情動が怪獣の好物なのかもしれない」と。本作では、怪獣(=断絶)は人間の情動を糧として生まれるのである。我々が生きるこの現実世界に目を向けても、SNSでの情動的共感によって拡大した#MeToo運動や、暴動の過激化するBLMなど、情動に従って決断主義的に他者を排除する「断絶」がそこかしこで生まれている。怪獣優生思想とは、そんな断絶や暴動に魅入られた者たちなのである。

 そして、#MeToo運動やBLMが一般市民の間に拡大していったように、蓬や夢芽にも情動や暴動への希求は確かに存在する。作中では、蓬が怪獣使いの力に目覚める兆しが描写され、最終話では怪獣使いの力を駆使して一瞬ではあるが怪獣を操作している。街を守って戦った彼もまた、暴動に魅入られる可能性からは逃れられないのだ。

 また、第11話『果たせぬ願いって、なに?』にて、物語の冒頭で街にばら撒かれた種から生まれた怪獣は、(ゴルドバーンを除いて)すべてダイナゼノンに倒されたことが明らかになる。怪獣騒動が一旦の結末を迎え、怪獣優生思想は目的を失って散り散りになり、蓬と夢芽と暦は各々のマシンをガウマに返却する。怪獣との戦いから解放され、河川敷を穏やかに歩く蓬と夢芽は、もうダイナゼノンには乗らなくなって、皆と会うこともなくなるのかな、と言葉を交わす。そんな夢芽の脳裏には、シズムの「やっぱり何処かで、怪獣と戦いたいと思ってるんじゃないの?」という問いがリフレインする。彼女もまた、己の中の暴動への希求を否定できないのである。

 ここで一度、怪獣優生思想の面々に触れておこう。怪獣優生思想は、優男風の眼鏡の青年「ジュウガ」、赤い長髪の青年「オニジャ」、紅一点の「ムジナ」、そして金髪の少年「シズム」の4人で構成されている。彼らは同一の目的の為に行動している様に見えてその動機はバラバラであり、ジュウガは使命感を満たすため、オニジャは暴力的衝動を満たすため、ムジナは自己同一性の不在を埋めるために怪獣を使役している。では、シズムの動機とは何だろうか。

 第11話で怪獣はもう発生しないことが示唆されたとき、ジュウガ・オニジャ・ムジナの3名は早々にその場を去る。ジュウガは己の使命に終止符を打つために、ガウマと対峙して自ら敗北を宣言する。オニジャはその暴力的衝動を発散するために愚かにも警官の拳銃を奪おうとして暴力騒ぎを起こし、警察に逮捕される。ムジナは新たに自己同一性を獲得した暦に嫉妬し、「私は暦君が憎いよ」と告げる。そんな彼らを、シズムは「やっぱり怪獣使いは怪獣を失うと人間に戻ってしまうのか。」と否定する。これは、「己の思想に基づいて断絶を生み出す行為にコミットする人々は、情動による暴動を行使する機会を失えば、その思想への情熱をも失ってしまう」と読み換えることができる。蓬や夢芽と同様に、怪獣優生思想も暴動への希求からは逃れ得ない。そしていつしか暴動それ自体が目的化し、暴動の機会が失われればその情熱の炎は消えることとなる。ただ1人、シズムを除いては。そう、彼こそは「本当の怪獣使い」であり、断絶を生むこと自体を動機とした存在なのである。そんなシズムは、蓬と夢芽を取り巻く恋愛感情という「情動」に目をつけ、そして遂にはそれを糧にして自ら怪獣へと姿を変える。「怪獣は、どこまでも自由であるべきだ」と呟きながら。怪獣は、そして怪獣使いは、自由(=人と人の繋がりを否定するもの)でなくてはならないのである。

 

 この文章ではこれまで、各キャラクターに焦点を当てて『SSSS.DYNAZENON』の物語を紐解いてきた。最後は、主人公たちガウマ隊のリーダーであるガウマその人について語ろう。本作で語られるガウマの過去は以下の通りである。

 時は5000年前に遡る。彼は元々は怪獣優生思想の一員であり、当時のジュウガたちの仲間として、ある国の下で働いていた。そしてガウマは、その国の姫と将来を誓い合うことになる。しかし、その国は怪獣使いを利用するだけ利用しておきながら、何らかの理由で彼らを排除することを選択する。これに対抗して怪獣の力を行使する怪獣使いだったが、ガウマは(姫への愛という情動に従って)姫を守るために彼らを裏切って敵対し、ジュウガたち怪獣優生思想を殺害する。そして、その戦いの中で自らも負傷したガウマもまた、命を落とすことになる。

 その5000年後である現在、ガウマと怪獣優生思想のメンバーは蘇り、当時の因縁から敵対することとなる。更にガウマは、物語の終盤にて怪獣の不在を悟って敗北宣言を告げに来たジュウガを暴力を以って迎え撃ち、「二度と俺の前に姿を現すな」と拒絶する。そう、ガウマは怪獣優生思想と敵対する(=断絶を否定する)存在でありながら、本作に於いて最も情動的に他者を排除する(=断絶をもたらす)という自己矛盾を抱えた存在として描かれるのである。そんな不可能性を引き受けるかのように、ガウマの体は物語の冒頭から少しずつ痣に蝕まれて衰弱し、物語の終盤には彼の死が暗示される。捉えようによっては誰よりも「怪獣使い」らしいと言えるガウマであるが、彼は5000年前から現代に蘇った時点で怪獣使いとしての力を喪っている。では、彼と怪獣使いの違いとは何だろうか。

 私は本作の怪獣使いを、「断絶や暴動に魅入られた者」と解釈している。では、作中で最大の断絶を生み、暴力によって怪獣優生思想を拒絶するガウマは、「断絶や暴動に魅入られて」いるのだろうか。答えは否である。ガウマが重んじているのは、断絶でも暴動でもなく、その源となりうる「情動」そのものだ。だから彼は、5000年前においては姫への愛という己の「情動」を最優先して仲間を裏切り、現代においては蓬の恋愛感情という「情動」を尊重して、時に叱咤しながらその進展を見守るのである。本作では断絶や暴動は否定的に描かれるが、それらを生み出す可能性を孕む「情動」そのものは、肯定的に描かれるのである。

 「情動」を象徴するキャラクターであるガウマの最期は、明確には描写されない。ともあれ、彼はその情動によって蓬や夢芽、暦との絆を育み、そしてその意志(約束と、愛と、、)は彼らに託され、彼らの中で生き続けることになる。“ずっと消えない痕”として。

 

 ところで、これまで触れてこなかったが、本作は1993年放送の特撮番組『電光超人グリッドマン』と、それを原作とした2018年放送のTVアニメ『SSSS.GRIDMAN』の続編として位置付けられる。これらの作品との関連性や、本作に散りばめられた小ネタや伏線についての解説は(私の勉強不足が露呈するので)他の人に譲るとして、ここでは前作『SSSS.GRIDMAN』との表現上の違いを取り上げつつ、本文を締め括るとしよう。

 本作は、前作『SSSS.GRIDMAN』と比較すると、群像劇的な描写が目立ち、BGMを排した邦画的な長回しの間と相まって各キャラクターの掘り下げが非常にスローペースとなっている。私はこれを、他者をカテゴライズして消費することに対する批判として解釈している。

 現代は、誰もが決断主義的に自身をキャラクターとして演出する時代であり、現代のコミュニティではこの「キャラクター」によって各々の立ち位置が規定されてしまう。また、従来より芸能人等はキャラクターとして広く消費される存在であったが、現代ではSNSの普及によって消費者の情動的な言及が可視化されることで、炎上が頻繁に発生している。そんな時代においてフィクションに求められる想像力とは、他者をキャラクターとして消費すること、すなわち、「(そこに演出や隠された内面が存在することには目を瞑って)他者をカテゴライズすること」への批判であると私は考える。

 本作では上述の通り群像劇的に各キャラクターの掘り下げが平行して進むため、序盤では1人1人の内面描写が希薄なままに物語が展開される。これは一見すると、物語の展開とキャラクター描写がちぐはぐな印象を与える。しかし本作は、その緩やかなコミュニケーション描写からもわかるように、意図的に現実に近い形のコミュニケーションを描こうとしている。そして、キャラクターという「設定」が提示されるフィクションとは異なり、現実におけるコミュニケーションでは、他者の内面はそのまま顕在化することは無く、そこには「演出」というフィルターが介在する。そのフィルターを通過した断片的な情報を時間をかけて観察することで、その人の内面を一面ずつ知っていくことしか出来ないのである。

 序盤はキャラクター描写が薄く、その魅力が完全には描かれないので、序盤しか見ていない(=他者の一面しか見ていない)消費者は安易に「キャラクターに魅力を感じない」という否定的な感想を抱く。しかし、全話通して視聴し、一面ずつキャラクターの内面を観察した消費者の目には、各キャラクターは身近で魅力的な存在として映る。これは、他者の一面を見るだけで(それが作為的な演出を含むことに対しては目を向けずに)他者をカテゴライズして消費してしまえる現代の消費者への批判として機能しているのではないだろうか。

 本作の各話のタイトルは、「〇〇って、なに?」というフレーズで固定されており、この〇〇には特定の感情を意味する言葉(ときめき、切なさ、揺れ動く気持ち、etc...)が当てはめられることが多い。自らの感情への問いかけと自覚。本作を紐解くにあたっては、やはりこの「自覚」こそが重要なキーワードとなると考える。緩やかなコミュニケーションにより他者の持つ性質(キャラクター)を一面ずつ知っていくこと、そして、コミュニケーションによって獲得可能な情報はあくまで断片的なものであることを自覚しながら他者と接する慎重な態度。2020年代の我々に必要なのは、こういった態度に関する想像力ではないだろうか。

 私は、本作がこれまでの他者をキャラクター的に消費する時代から、他者は把握不可能であることを自覚した上で慎重に接し合う時代への転換点になれば良いと考える。果たして、そのような“かけがえのない不自由な”時代は訪れるだろうか。コミュニケーション(=ダイナゼノン)は、断絶(=怪獣)を解消することができるだろうか。これからの時代の想像力に期待するばかりである。